ヒカリ

DEEP RIVER 光

上尾市 桶川市 個別指導 学習塾 セルフラーニング光塾

コーチえのもと(その17)

365かける2といくらかの歳月をかけて毎日まいにちコーチえのもとがぼくらに教えたことはテニスであるとばかり当時は思い込んでいた。

ぼくの練習メニューの1つめだったスマッシュは250本が日課だった。1本でもネットにかけたり的から外したりしたら1本目から数え直しだった。

彼は打ち方についてしゃべりかけながらぼくらにたくさんすぶりをしてみせた。

スイングや身体の動きに関してはゴルフと野球と卓球の話が多かった。
テニスもゴルフも野球も同じこと、というのが彼の持論だった。

クラブとバットとラケットで身体の使い方が同じだという彼の理論が正直なところ、ヴォクは今でもよくわかっていない。


彼はぼくらにてっきりテニスを教えてくれているのだとばかり思ってた。
でも違った。

いまになって思えばそんな技術的なものではなかった。すぶりにごまかされていた。

実際彼が球出し以外ではラケットをもつことはなかったし彼はテニス初心者でフラットにラケットを持つことすらしていなかった。カットボールしか受けた記憶がない。

彼のベンチにはテニスの本が置かれていて、彼が折り目をつけたドッグイヤーのページを開いて確認するシーンを目にすることは少なくなかった。

彼は一日の終わりにはいつも筋肉痛だったんじゃないか。
あんな下手くそな手打ちで何百球千球も球出しのため打っていたら肘も肩もがいたくなったに違いない。そのそぶりすら見せなかったけれど。


彼はぼくらにいったい何をしたかったのだろう。
その問いがいつものように気になって仕方がない。


耳にタコができるくらい聞かされた「30になったらわかるからやれ!」の言葉を信じやったが、わかるまでに15年も必要なかった。

18歳になるまでにはそれはもうぼくらの信念になっていたんだ。

成し遂げるための方法がそのことを除いて他になにひとつないということは、もはや疑いようのないくらいにまでしみついていた。

コーチえのもとはぼくらにテニスを教えてくれた(ように見えていた)。
そしてすべてを教えてくれた。
ついでに少しだけ筋骨たくましくもしてくれた。

コーチえのもとは、ひとつの物事に打ち込むことをぼくらに教えてくれたんだ。
ボールの打ち方なんてもんでなく。
 
きっちりやるか、やらないか、どっちかしかない。やるならやれ、俺は半端はひとっちゃすかん。えのもとのやり方はいつの間にかぼくらの中に染み込んでいたんだ。

夏休みになると練習はいよいよ本格化した。練習スケジュール表などというものはない。休みという文字はコーチえのもとの辞書に存在しなかった。

雨のたまる日以外は朝6:00からボールが見えなくなるまで毎日外のコートで練習、大雨でコートに水たまりが多い日は自主練を体育館でやった。
夏が来るとまだ暗い空の下、自転車をこぐ田んぼのあぜ道の記憶があの草の匂いとともによみがえる。

帰りはもっとまっくらでハンドルが曲がってライトをうまくさせずよく田んぼに落ちた。足ががくがくで自転車をこぐ力も弱々しい。

ほっとするのは12:00から12:40の休憩のときだけだった。
喉がかわきすぎておにぎりひとつ食べるのがやっとで繰り返し繰り返しポカリスウェットを飲んだ。
そして階段の陰で空を見上げた格好のまま目を閉じてとにかく休んだ。
もうこのままずっと休憩だったらいいのにと思っても時刻になると学校のどこに寝ている部員にも聞こえる大声で「集合~~~」の声をかけねばならなかった。

コーチえのもとがぼくらに挑んだ闘いは夏の猛練習だった。

一日経つごとにぼくらはたしかにうまくなった。

あのときだ。練習すればするだけ絶対にうまくなるということに気がついたのは。練習では足がもつれて倒れてばかり、本番大会の試合が楽に思えたんだ。

家に帰りつくと地下から出る水のシャワーを頭にかけた。
まるでスイカを湧き水で冷やすみたいに長い時間水のシャワーを浴びた。

夏休みに、部員の全員がテニスのフォームが同じようになり程度の差はあれみなうまくなった。
程度の差はあれみな真っ黒の肌になった。

夏の試合でも、日により焼けているチームが勝った。
あれだけ練習して負ける方がおかしいと誰もが気合でボールを打った。

負けるわけがなかった。